縁起
縁起
縁起
累代の社家である初山家の先祖、羽筈山吉彦は遠祖を藤原氏とする人で、奈良時代に大和の国に生まれました。幼少の頃乳母に付き添われて、一寸八歩の金で作った弓矢八幡をお守りとし、縁故であった当時の大領、岩屋の荘司橘正輝という人を頼って九州に下ってまいりました。吉彦は成人すると橘正輝の娘である吉姫と結婚し、子・吉将を授かりました。
文徳天皇の御代仁寿二年(852)吉将の子である三代目羽筈山吉武に、ある夜衣冠の神人が夢枕に立ちお告げを下されます。『我は弓矢八幡なり。汝、我がために奉祠せよ。五穀豊穣の守護すべし。すみやかに宮居を定めよ。』見れば弓矢八幡神は枕辺に扇を残し忽然として西南の山岳に飛び至り、車輪のごとき大光明を発しました。吉武が夢から覚め枕辺を見れば、誠に一本の扇が残されております。急いで夢に見た大光明を発した場所を探索すると弓矢八幡神が大きな楠の下、鷽鳥の声で嘯吹いて『ここぞ、ここぞ。』と教えました。吉武はその場所にお社を建て、嘯吹八幡神社として奉斎いたしました。社名の「嘯吹」は「口をすぼめて息吹きをすることにより、罪・穢れを吐き出し身心を清浄に保つ」という意味を持ちますが、この伝承が社名由来の一つとされております。
その後再び夢中で 『下河内村へ一宇を建立すべし。我湧き湯を除き田地の患いを除くべし』とご神託を授かり湯之本(宝縁導)の地に遷座致しました。 更に才尾にご鎮座の後、後鳥羽天皇の御代文治五年(1189)にご神託を得て、この山内の地にお鎮まりになられました。そして湯之本の旧社地へは須佐之男命を勧請して末社と定め、須佐神社をお祀り致しました。
江戸時代に入り小倉藩主小笠原氏の祈願所と定められて後、当社では盛んに諸祈願を行いました。境内に残る三蓋菱の燈籠は、藩主の正室が病気平癒祈願の成就を感謝し、寄進されたものであります。また大友宗麟の勢来攻の折り、社蔵の『火吹面』を境内にある松の木へかけた処、大火炎を吹き出し、たちまち軍勢を追い返し、この由来をもって除災招福の霊験ありと伝えられております。